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2016年11月「ゆるし・解放・平安」

 人から赦されてほっとした経験は、大なり小なり、どなたにもおありでしょう。これはある時の私の経験です。出張先から教会に戻り、もうすぐ教会というところで、私は突然、その日の夕方にある英会話クラスの子供達に、この日は出張で休みとなっているのを知らせてない事に気づきました。授業の始まり時間はもうとっくに過ぎています。「きっと子供達もあきらめて帰ったでしょう、後で謝ろう」と思いました。ところが、何と彼らは外のうす暗闇で、私が帰るのを40分も待っていました。

 

 「先生、何してたん?もう授業料、はらわんから・・・」と当然の怒りがぶつけられました。むろん全面的に悪いのは私ですので、ひら謝りです。でも子供達の怒りも1,2分で収まって、すぐに「まあ、いいよ。いいよ。出張だから仕方がない」と、何ともあっさりと赦してくれました。こうして私は、赦しの有難さを実感したのでした。

 

ところで、決して赦されない状況なのに、赦して下さり、今もなお赦し続けていて下さる方がいます。それが、聖書の語る神様です。人はみな罪人なので、神様の赦しが必要です、というのが聖書の主張です。

 

「あなたがたは自分の罪過と罪の中に死んでいたものであって、そのころは、それらの罪の中にあって、この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として、今も不従順の子らの中に働いている霊にしたがって歩んでいました。」 エペソ2:1~2

 

 わたし達には罪がある、それもその中で死んでいるほどにひどい罪だといっています。この罪はひと言でいえば、神様の存在を認めないことです。そして、認めない事を悪いとも思ってない、それほどにこの罪は深刻です。

 

なぜこの社会には、多くのいざこざがあるのでしょうか? それは、まことに不完全な人間が、それぞれ、自分のものさしや秤をもって、互いに計りあっているためです。自分も悪いかもしれないが、相手がもっと悪い、この人だけは赦せない、私がどうというより状況が悪いと考えており、その結果多くの人が怒りや憤りに心の平静さを失っています。ある日、突然に教会を訪ねてこられた方は、自分にはどうしても赦せない人がいて苦しい、と悩みを訴えられました。「教会にくると、赦せるようになるのでしょうか」と聞かれたので、「はい、時間はかかるかもしれませんが、神様がそのようにして下さいます。」と答えました。 パウロは続いてこうもいっています。

 

あわれみ豊かな神は、わたし達を愛して下さったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かす。」エペソ2:4~5

 

 人の罪が赦せるようになるためには、まず自分の罪に気がつくこと、と同時に、この私の罪を無条件にお赦し下さった神様の大きな愛にふれることです。不思議とあんなに憎らしかった人が、次第に受け入れるように変わっていきます。赦しの問題で苦しむ人が、1人でも多くキリストの愛を知り、心の解放と平安が得られますことを願っています。