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2017年6月「キリストが死んでくださったので」


 私が生きていくのには、他の多くの命が犠牲になっている、そんなことを考えたことがありますか? 

 

ある肉牛を飼育している方の話です。この方は、子供の頃、毎朝5時半に起きては、牛の世話をしたそうです。大事に育てた牛が、いよいよ売りにだされるとき、車に乗りたくないと、大粒の涙を流しました。足をふんばって抵抗する牛をみるのは、とてもつらかったということです。この話を聞いた私も、胸が締め付けられるようでした。しかし、その同じ私が「今晩、ちょっと贅沢して、すき焼きにしようかな。それともステーキがいいかな。」と肉を使った夕食を楽しみしているのです。大きな自己矛盾を感じます。でもこれが現実ですね。

         

つまるところ、人間が生きているのは、他のばくだいな数の命のおかげであり、私達は他の命を食べて生きているのだと知ります。そして、改めてこの命が、いろいろな動植物の犠牲の上に成り立っていることを思い知らされます。

 

 そこで、犠牲といえば、もう一つ忘れてならない犠牲があると聖書は教えています。それは、イエス・キリストが私たちの罪のために、その命を投げ出したという犠牲です。どういうことなのでしょうか?

 

 聖書によれば、人は生まれながらに罪をもっています。この罪は、警察のごやっかいになるといったたぐいの罪ではなく、私たちの心の中で生まれ、それが言葉や態度に表れるものです。例えば、怒り、ねたみ、不平不満、陰口、うらみ、貪欲、不品行、怠慢などです。私たちの心の中には、多くのこうした罪の火種があって、いつもくすぶっており、このくすぶりが、人間関係のトラブル、家庭の不和、夫婦のもつれ、また大きくは国家間の軋轢などを起こします。文明が発達しても、罪はなくなりません。国を治めるほどの人物も、自分の心を完全におさめる人は一人もいません。聖書の語る、「人はみな罪人だ」という言葉の真実さを思わずにおれません。

 

 こうして私達は、いかんともしがたく、自分の罪の結果である行き詰まりや、死を、自分の身に刈り取っているというのです。ああ、どうすればいいのでしょうか。一体、救われる手立てはあるでしょうか?

 

はい、あります。そこで聞くべきが、良き知らせと言われる「福音」の言葉です。

 

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

                                      ローマ人への手紙6章23節

 

 神の御子イエス・キリストは、罪がないにも関わらず、罪人である私たちの罪を背負い、十字架で死なれました。そして3日目に蘇り、私たちに罪の赦しと永遠の命への道を開いて下さいました。「永遠の命」とは、罪が赦され、いつも神様が共にいて下さるという状態です。それにより、人は罪に打ち勝つ力を頂くのです。私が戦うのでなく、神様が私に代わって戦ってくださいます。こうして罪に勝利する道が開かれました。キリストはあなたの罪のためにも、死なれました。あなたも罪の赦しを受け、永遠の命を頂いて、罪に打ち勝つ人生を送りませんか。