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2019年4月「ああ、我も罪人なり」

初めに聖書の言葉を聞きましょう。

 

「ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに『なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『私が求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」」

                               マタイによる福音書9章11節~13節 

 

 ここにはイエス様を真ん中にして、二種類の人々が登場します。片方はファリサイ派の人々、もう一方は徴税人や罪人です。ファリサイ派の人々は神様の戒めを守り真面目に生きていた人々、その反対に徴税人や罪人は、本人も周りからも罪人の烙印(らくいん)を押された人たちでした。

 

 イエス様が罪人たちと食事をしているのを見て、ファリサイ派の人たちがなぜイエス様はあんな人たちと?と文句を言った時、イエス様の答えは、第一に、病人こそ医者を必要とするのだ、というものでした。では一体病人とは誰のことでしょう? 徴税人や罪人は、救いの必要な病人である、これはすっと理解できます。

 

 では、ファリサイ派の人々はどうなのでしょうか? 実は、イエス様は言葉にはしていませんが、ファリサイ人のほうがもっとひどい病人なのであるといいたかったわけです。彼らは、言い換えると、自分が病気であることが見えていない病人です。彼らは真面目に掟としての「いけにえ」を捧げましたが、皮肉にもその心は、神の御心から遠く離れていました。そして真面目であればあるほど、弱い人や罪ある人を見下してしまうという結果を招いていたのです。

 

 彼らは「あわれみ」よりも、「いけにえ」を大切にした結果、いつのまにか愛のない形式主義に陥り、また、自分を神様に近い場に置くという罪を犯してしまいました。私達もまた、何かに熱心になって周りがよく見えなくなる時、自分が、自分が、と思ってしまい、本当に大切なものが見えなくなってしまう危険性をもっているのではないかと思います。

 

 さて、そのような弱さをもつ私達ですけれども、ここで改めて教えられるのは、人間の愚かさを憐れみ、だからこそ救いへと、命へと招いてくださる神様の愛です。人間の弱さ、愚かさを、悲しいかな、日々に味わっている私達です。真面目に生きたら生きたで、すぐに己れを高くしたい誘惑にかられ、逆の場合には「どうせ私なんて」とすねてしまったりします。人の成功をねたましく思い、逆に誰かの不幸をどこかで喜んでしまう醜(みにく)い心をもった人間、これが正直なところ、私達の姿です。

 

 しかし聖書は、だから駄目、なのではなく、だからこそ私の所に来なさい、私が来たのは正しい人を招くためでなく、罪人を招くためである、といって下さるのです。主イエスの十字架は、こうした罪ある私達への招きです。たとえ今日、私達の罪がどんなに大きくても、私達は確実に、イエス様の救い、新しい人生へと招かれております。